3.04.2013

くさい歌 「マーサ、あるいはマーシー・メイ」



身を置いていたカルト集団から逃げたマーサ、 あるいはマーシー・メイ、 あるいはマレーネは2年間 音信不通であった姉に電話する・・。

たくさんの賞も取っている話題作だが、 鑑賞後はなぜかピーター・フォンダ主演の大昔のコレを思い出した。 大した映画でもなかった気がするのに、 そうした集団の不気味さということで連想されたのだろう。 もちろん本作では黒ミサは出てこないし、 どちらかというと仏教系の思想のようではあったが。

では何が不気味なのだろう。 上手いこと言いくるめるようなところか、 共有の名のもとの夜這いか、 殺人か、 妙に気に入られて期待をかけられるところか。

姉はマーサを迎え入れる。 夫と二人きりで夏を過ごすはずだった別荘に同居させてくれる。 しかしマーサは集団でのクセが抜けずに裸で泳いだり、 眠れないからと夫婦の寝室を開けたりしてしまう。 ダンナは夜這いには来なかったが、 マーサは彼に無意識の思想的侮蔑を投げかけてしまい、 また姉のおせっかいには集団と同じものを感じ、 けっきょくは上手いこと言いくるめられて、 どこかへ移されようとするその朝、 追っ手の姿を目にする。

というところで終わりなのだが、 集団での生活と別荘での日々が交互に編集され、 どちらにも居場所がないまま進むのか、 どちらかを選択するのか、 あるいはどちらからも抹消されてしまうのか。 悪くはないものの、 新たな認識に至るほどの深みもなく、 もし仮にマーサがどこか外国で長く暮らしていたのならカルチャーギャップで済むところが、 そうならないのは違う常識を持つ者への偏見とも言える。

すごくニュートラルな心になって、 好意的に集団を見てみる。 それでもギターを抱えて "きのう書いた曲だ" と教祖が歌いだす歌に白々しさを覚えるのだけは避けがたく、 この感覚がある限り自分はさまざまなマインドコントロールから逃れ続けるだろう。 そうしたアイデンティティのリトマス試験紙として見てみるのもいいのではないだろうか。



マーサ、 あるいはマーシー・メイ (2011) 日本公開2/23~ 公式サイト・予告
Marth Marcy May Marlene  象のロケット
脚本・監督 ショーン・ダーキン 
エリザベス・オルセン サラ・ポールソン ジョン・ホークス 

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